

昨日の午前中は寒くてみぞれが降っていたが、今日は春らしいポカポカ陽気。だいぶつぼみも花開いてきました。
ひとびとの心に寄り添う、安心と安らぎのあるお寺をめざして
2月23日(日)今年も永代経法要のお勤めをいたしました。準備のお手伝いをいただいた黒羽地区のみなさまありがとうございました。また、当日は40名ほどのお参りで、本堂もいっぱいになり、にぎにぎしく皆で龍念寺をお支えくださったご門徒さま方を偲びお勤めができましたこと、感謝しております。
今年のご講師は山梨県大月市淨照寺の平井裕善先生にお話しいただきました。先生のお寺の山号は中樹山(ちゅうじゅさん)とのことで、「龍念寺様よりさらに山の中にあります(笑)」とご紹介されており、思わず笑ってしまいました。永代経法要ということで、先人方を供養していく、追悼していくということについて有難く楽しくお取次ぎいただきました。
なんと今年から、私も子どものころに参加していた「くろばねマラソン」が12月開催から2月23日開催に変更されておりました。お寺の中学校前の道路がコースで、交通規制がかかるようになっておりました。若干の影響が予想されましたが、無事にご法要をお勤めできて一安心でした。
今年も本山である京都・西本願寺の御正忌報恩講にお参りしてきました。
毎年お参りさせていただいておりますが、今年は「住職」として初めての参拝でした。
親鸞聖人の御真影様に住職にならせていただきましたとご報告。
弟も今年は讃衆として、全国から法要に出仕されるご住職様方の受付やご案内をしておりました。父にもその姿を見せてあげたかったなとしみじみ思う今日この頃。
本願寺の唐門。相変わらずの荘厳さでした。
御正忌報恩講にお参りし、親鸞聖人のご遺徳に感謝するとともに、住職となり一寺院を預かる身として思いを新たにする貴重なご縁でした。
令和6年も報恩講法要をお勤めすることができました。事前の準備をいただいた金丸地区のみなさま、当日お参りをいただいたみなさま、本当にありがとうございました。
また、ご法話のお取次ぎをいただきました西原龍哉先生には、面白いエピソードを交えながら有難く浄土真宗のみ教えをお話しいただきました。遠方にもかかわらずお越しいただき有難うございました。
今年の報恩講法要は、私が住職になって初めての報恩講法要でありました。以前は父が準備していた仏具のおみがき、仏華の準備など、はじめて自分で準備したので、想像以上に時間がかかってしまいました。。。
何とかお勤めできたのも、ご門徒の皆さまのお蔭様。また来年も厳かにお勤めできるよう努めていきたいと思います。合掌
報恩講のご案内です。
龍念寺をお支えいただいた先人方を追悼し、盂蘭盆会法要をお勤めいたしました。
小学校の5年生の時、父親から「お盆参りを手伝ったら、ご褒美にプレイステーションのゲーム機を買ってやるぞ」とそそのかされて以来、父親と二人、時には弟も含めて三人でご門徒の皆さまのご自宅のお盆参りを行ってきましたが、今年は住職として、初めて一人で回るお盆参りとなりました。
車を走らせながら子どもの頃、父親の助手席に乗って一緒にお参りをしていた当時の思い出がよみがえってきます。「そっちの赤い屋根のお家、そこの火の見櫓の先のお家、ここは二軒隣りどおしだからどっちもお参りしてきてくれ」
父親の言葉を懐かしく思い返します。
父も龍念寺に入寺した当初、一人でお参りをしていた頃は大変だったろうになぁと思いながら、汗をかきかき、お参り。
コロナもあって近年は初盆のご自宅しかお参りしていませんでした。
久しぶりにご自宅にお参りするお宅もあり、「あれ、どこだったかなぁ」と探り探りお参りさせていただきました。
温かくお迎えいただきありがとうございました。
無事にご門徒の皆さまのご仏壇にも新住職に就任したご報告をさせていただけたかと思います。 合掌
「寺報」を発行いたしました。
50年に一度のご法要がいよいよ始まりました。即如前門様のご同席です。
龍念寺から車で40分ほど走ったところに、茨城県大子町がある。そこに真宗大谷派の法龍寺というお寺があるが、ここは如信上人終焉の地と伝えられるご旧跡である。
如信上人(1235-1300)は親鸞聖人の孫にあたり、親鸞聖人より法義を受けられ、関東でご教化をされたとされる。奥州大網(現在の福島県石川郡古殿町、一説に西白河郡泉崎村)を教化の拠点として大網門徒を形成。布教中に急病にかかり66歳で示寂されたと伝わっている。
せっかくなので少し遠方になるが、奥州大網をめざす。ここからさらに車で約1時間ほど走ったところだ。如信上人の存命中は徒歩での移動だったかと思うと当時の人々のご苦労がしのばれる。
細い道を上がっていった所に如信上人大網遺跡がある。
題号は釋彰如(大谷派23代法主大谷光演)とある。
背面には何やら由来が彫ってあるが、漢文であり苔が多く簡単には読めなかったのが残念であった。最後に「昭和3年12月18日 求道會舘及求道學舎 近角常觀撰并書」とあったので近角常觀が記したものだということは分かった。こうした記録も誰かが残そうとしないと時代と共に風化してしまう。
少し北側には大網庵という古民家を移築した集会所がある。
如信上人が拠点とされた大網の地。どうしてこのような場所でと思わずにはおれないが、上人の息吹を感じることができる場所である。