本願寺第2代 如信上人のご旧跡を訪ねて

龍念寺から車で40分ほど走ったところに、茨城県大子町がある。そこに真宗大谷派の法龍寺というお寺があるが、ここは如信上人終焉の地と伝えられるご旧跡である。

如信上人(1235-1300)は親鸞聖人の孫にあたり、親鸞聖人より法義を受けられ、関東でご教化をされたとされる。奥州大網(現在の福島県石川郡古殿町、一説に西白河郡泉崎村)を教化の拠点として大網門徒を形成。布教中に急病にかかり66歳で示寂されたと伝わっている。

せっかくなので少し遠方になるが、奥州大網をめざす。ここからさらに車で約1時間ほど走ったところだ。如信上人の存命中は徒歩での移動だったかと思うと当時の人々のご苦労がしのばれる。

細い道を上がっていった所に如信上人大網遺跡がある。

如信上人大網遺跡
如信上人大網遺跡

題号は釋彰如(大谷派23代法主大谷光演)とある。

背面には何やら由来が彫ってあるが、漢文であり苔が多く簡単には読めなかったのが残念であった。最後に「昭和3年12月18日 求道會舘及求道學舎 近角常觀撰并書」とあったので近角常觀が記したものだということは分かった。こうした記録も誰かが残そうとしないと時代と共に風化してしまう。

少し北側には大網庵という古民家を移築した集会所がある。

如信上人が拠点とされた大網の地。どうしてこのような場所でと思わずにはおれないが、上人の息吹を感じることができる場所である。

2024年龍念寺永代経法要

成田智信 師

2月23日(木)本年も永代経法要をお勤めすることができました。午前中は雪がちらつき、ここ数日のGWのような温かさとは打って変わっての寒さ厳しい一日でしたが、お参りくださったみなさま本当にありがとうございました。

ご講師は神奈川県戸塚の善了寺の成田智信先生をお招きし、ご法話を頂戴いたしました。

「平等心をうるときを 一子地となづけたり」

すべてのものを分け隔てなく救っていく阿弥陀如来の御心を有難くお話しいただきました。

先生は現在、令和6年1月1日に発生した能登半島地震で被災された方々への救援活動にご尽力されていることをご紹介くださいました。なんと、この法要の翌々日には再度現地に入りボランティア活動にご尽力されるとのことです。先生のご活動に心より敬意をいただきながら、阿弥陀如来の御心に思いをはせながらお話を聞かせていただきました。

 

2024年1月8日の積雪

 

5センチほど雪が積もった。辺り一面の美しい銀世界。私が小学生の頃は30センチぐらい毎年雪が積もったように記憶している。本堂の屋根の上に積もった雪が、時間が経つと下に落下して、屋根のすぐ下だけ大きな雪山になる。その雪山でかまくらを作ったりすべり台を作るのがのが楽しみだった。

2023年龍念寺報恩講法要

今年も龍念寺報恩講法要を無事にお勤めすることができました。お当番の方々をはじめ、お参りくださったみなさまに感謝申しあげます。

今年のご講師は、神奈川県海老名市 自然寺の村上弘樹先生にご法話をいただきました。

遠方にも関わりませず、有難いご法話を頂戴しありがとうございました。お念仏の声があふれかえる有難いお座でございました。

自然寺様のホームページはこちら

合掌

2023年龍念寺永代経法要

2月23日、本年度の永代経法要もお陰様により無事にお勤めすることができました。お参りくださいました御門徒の皆様、誠にありがとうございました。

コロナ渦ということもあり規模を縮小してのご法要でしたが、親戚寺院のご住職様にご協力をいただきながらご法要を執り行うことができました。

今回のご講師は大阪府茨木市の上田暁成先生にお話しをいただいたことであります。三毒の煩悩を話の糸口に、仏さまのお話を有難く、また軽快なユーモアを織り交ぜながらお話しいただいたことでございます。

永代経法要の際には、本堂の正面向かって左側の余間に法名軸を奉献いたしております。これまでに先立たれた龍念寺の御門徒の皆様のご法名が記されている尊い御軸であります。

ご法要を通し、少し日常を離れ、ゆったりとした中でも厳粛に、故人様へのご追悼の思いとともに、故人様への感謝の思いを新たにし、共々に仏さまのお話を聞かせていただく、そのようなご縁をいたことでございます。合掌

本願寺人吉別院~かくれ念仏を訪ねて

本願寺人吉別院(熊本県)とかくれ念仏の遺構(鹿児島県)を訪ねるご縁がありました。

本願寺人吉別院。立派な本堂です。父も短い期間ですが奉職していたとのこと。

本願寺人吉別院のお寺の縁起

立派なお内陣

かくれ念仏の様子を伝える遺品の展示。仏さまをまな板に隠したり、傘に隠したりと。お役人に見つからないようにかくれながら信仰を守ってきたことがうかがえます。

周辺には多くの殉教地がある模様

実際に立山の「かくれがま」に行ってみました。

縁起はこちらを参照

入口もかなり狭い

頭をぶつけながら這って中に入っていきました。

這いながら先を進む

小さな御本尊がご安置されていました。合掌

現在のように整備される前の様子


江戸時代を通して薩摩藩・相良藩は藩内での浄土真宗の信仰を禁止していたと。見つかったら当時は死刑。にもかかわらず、熱心な信徒達が文字通りいのちがけで守り抜いてきた浄土真宗のみ教え。そのリアルな実感に触れさせていただく貴重なご縁でした。先人達の甚深なるご苦労に敬意を表しながらお念仏させていただきました。

本願寺人吉別院のHPはこちらから

2022(令和4)年度 龍念寺報恩講法要をお勤めしました

本年も龍念寺報恩講法要を無事にお勤めすることができました。
偏に龍念寺をお支えくださっているご門徒の皆様、ご法要にご出仕いただきました親戚・近隣寺院のご住職様のお陰と深く感謝いたしております。
またご法話を頂戴いたしましたのは東京都中野区浄円寺、芝田正順先生です。重ねて厚く御礼を申しあげます。

本年も若輩者ではありますが住職に代わり導師(お勤めのリーダー)を務めさせていただきました。
お勤めを始めるにあたり「表白(ひょうびゃく)」というこれから行う法要の趣旨を述べる部分があり、その中で「ここに祖師聖人(親鸞)の化導によりて、法蔵因位の本誓を聴く、歓喜胸に満ち渇仰肝に銘ず。しかればすなはち報じても報ずべきは大悲の仏恩、謝しても謝すべきは師長の遺徳なり。」という本願寺第3代覚如上人のお言葉を拝読いたしました。

このお言葉の意味は、直接的には覚如上人が浄土真宗のみ教えを伝えてくださった、宗祖親鸞聖人への感謝の思いを述べられたお言葉です。しかしながら、拝読させていただく私にとっては「親鸞聖人のみならず、龍念寺に関係する数多くの先人方のお陰によって、また今ここに集う皆様方のお力添えによってこのような法要を勤めることができているのだ、感謝の気持ちを忘れてはならないぞ」と、覚如上人にご教示をいただいているような思いで拝読いたしておりました。

当日、お当番さんも含め約40名弱の皆様にお参りいただきました。ご準備等、お手伝いいただきありがとうございました。
背中には、そのご門徒様方の視線を感じながら、また内陣には親戚の叔父たちの視線を感じながら、多くの皆様に支えられていることと、そしてこれからもお寺やみ教えを守り伝えていかなければならない責任感を感じながら、賑々しくお勤めができましたこと嬉しく有難く思うばかりです。

感謝の思いをここに記します。合掌

13.神仏分離令

(国立国会図書館デジタルアーカイブより)

明治元年、維新政府は神仏分離令を出した。それは政府が政教一致の政策の為に、在来の神仏混淆を分離させるのが目的であった。神社においては、分離令に相乗じて遂に廃仏棄釈の妄論を起こし、所によっては仏像・経論等を焼却する暴挙も起こり、野仏等も河や沼に投げ込んだり、仏堂を焼いたりといった事件まで起こった。

この辺はそれ程ではなかったが、塩谷郡の一部はかなり激しかった。その頃慈善の弟慈海が今の矢板市に合併した泉村の伊佐野の持宝院にいた。矢板方面はかなり激しく、仏堂などが破壊されることがしばしばで、太子堂もその憂き目にあっており、その堂を守護している人々から、慈海は聖徳太子像を預かり、また、阿弥陀堂の仏像も預かった。その太子像は後に慈海から龍念寺に預けられ、今日に至っている。その太子像は厨子に元文二年の墨書銘があり、像高一尺五寸で台座が付いている。阿弥陀如来像は青木組の佐藤一男家の御仏壇に安置されている。京仏師の作と思われる。その廃仏棄釈の妄論も仏教界の激しい反論のため、次第におさまり平穏となった。

11.龍念寺包囲発砲事件

※豊原国輝筆「近世史略 武田耕雲斎 筑波山之圖」 -天狗党の乱-、3枚揃錦絵wikipediaより

元治元年春、水戸藩内の天狗党(過激派)の藤田小四郎(藤田東湖の子)らは、筑波山に立てこもり挙兵し、書生連(温和派)との藩内抗争を起こした。その余韻を龍念寺が被ったのである。このことはあまり知られていないが寺としては大事件であった。

その発端は水戸藩久慈郡黒沢町付(現在大子町)の郷土飯村清蔵の二女ヱンが慈善の妻であったことによる。ヱンの兄が書生連の実力者の一人飯村紀七郎である。一時、天狗党が優勢の頃、身の危険を感じ龍念寺に身を寄せていた。天狗党は、「飯村紀七郎を召捕れば褒賞を与える」とした。黒羽藩内の龍念寺に飯村一派が隠れているとの噂が水戸にあるから、急ぎ居所を替えるようにとの知らせが前夜にあった。翌日払暁、寺の西の山道をヱンが紀七郎を案内して矢組の門徒の家へ連れて行った。その直後、濃い朝霧の中、寺は三方より囲まれ、銃声が鳴りひびいた。その時、寺には慈善と十二歳のリウだけがいた。二人はすぐに天狗党の発砲と気づき、慈善はリウに

「お前は早く近所の家に逃げろ」

と言い置き、前の他の畦道沿いに山麓を東に走った。驚いて道路に出てきた近所の人に慈善は、天狗党の発砲だと知らせ南へ逃げた。その時、慈善の後を天狗党の一人がおってきて、その近所の人に寺に飯村が居るかと尋ねた。聞かれた人は気転を利かせて「今、二人が馬でお殿様へ知らせに行ったぞ」といった、そのため天狗党は、折り返して寺へ戻り、何人かで家捜しをした。(古い庫裏の天井に槍で着いた跡が残っていた。)しかし、誰もいなかったので早々に引き上げていった。リウは近所の人に成りすましていたし、慈善も逃げて無事であった。ヱンと紀七郎は矢組の広木家に行き、僅かの差で助かった。

リウも近所の人々も天狗党が東へ引き上げていく有様を見ていたが、七、八十人位いたと、言っていた。その時、リウは単衣物を着ていたというから夏の事であったと思われる。大子町の飯村家は今も隆盛であり、龍念寺本堂建立の折には、本家と分家とで寄進をしてくれたことを付記する。

その後、天狗党は幕府の圧力によって劣勢となり、元治元年十月二十六日、軍議の結果、武田耕雲斎は意を決し、上洛し朝廷に哀情を嘆願することになった。十一月一日武田耕雲斎、山国喜八郎は天狗党千余人(別な文書には八百余人とある)を率い、月居峠を経て黒羽領に入るとの報があった。黒羽藩では明神峠で郷筒組が鉄砲を撃ちかけた。天狗党は雲巌寺に入り川上村に止宿し、翌二日、木佐美に出て河原に至った。耕雲斎は黒羽藩に嘆願書を出し河原に止宿することを申し入れた。藩では城下に向かってこないことを条件としてこれを認め、天狗党は河原にて一夜を過ごした。藩からは河原周辺の者に避難するように知らせがあった。慈善は未だ心の傷痕がなまなましいので、矢組へ避難する用意をしていた。そこへ河原横道の権之丞(関谷家の曽祖父)が来たので、慈善が事情を話すと、よく分かってくれて「俺も今、家族全部親戚へ逃がして、お寺の本堂に居て今晩家の方を見ている考えで来たのだから早く行きなさい」とのこと。慈善は権之丞に後を頼んで、家族二人を連れて矢組へ逃れた。その矢組は隠れるのに好都合のところで西は那珂川の岸壁であり、南東北は山に囲まれており、そこ全部は寺の門徒で親切なものばかりであった。

一方権之丞は本堂より河原方面がよく見え天狗党は焚火を焚いており、家でも焼かれてはと心配しながら、まんじりともせず一夜を過ごした。天狗党の人々は敢えて乱暴なこともせず、伊王野・芦野方面へ立ち去って行った。また、越堀・鍋掛方面にも一派が止宿したという。天狗党が川に止宿したとき、河原の益子家に六字の名号(南無阿弥陀仏)を一幅置いていったのが残っている。その御名号に親鸞九十歳と書いてある。金襴表装の百代形である。親鸞聖人の関東在住は六十歳までで以後は京都に居られた。それに六字の名号に署名されたかどうかと思う。私もかつて拝見したことがある。真偽のほどは別として貴いものであり、永く保存してほしいと思う。

2021(令和3)年 龍念寺報恩講法要をお勤めしました

11月6日(土)今年も無事に報恩講法要をお勤めすることができました。昨年に引き続き新型コロナウイルス感染症の影響により、規模を縮小し、また近隣のお寺様からのお参りは親戚寺院のみに限りお勤めをいたしました。

法話のご講師は東京都文京区、稱名寺様の横内教順先生にお話しいただきました。横内先生は東京教区(関東一帯)の若手布教使のホープです。わかりやすい例えばなしを交えながら有難くお取次ぎを頂いたことでございます。

京都西本願寺の式務部(お勤めのスペシャリスト部隊)に勤務の弟顕生に本場仕込みの喚鐘(かんしょう:法要の始まりを合図する鐘)をついてもらいました。

今年もこの報恩講法要をお勤めできたのは、ひとえに御門徒皆様のお力添え、また近隣のご寺院様のお力添えによるものであります。龍念寺は室町時代の創建であると伝わっております。約500年間、宗祖親鸞聖人がお示しくださった浄土真宗のみ教えが今日まで伝わってきている。親鸞聖人、そしてそのみ教えを伝え続けてくださった先人方への感謝の思いを改めて確認、そしてまた新たにするご法要でありました。