13.神仏分離令

(国立国会図書館デジタルアーカイブより)

明治元年、維新政府は神仏分離令を出した。それは政府が政教一致の政策の為に、在来の神仏混淆を分離させるのが目的であった。神社においては、分離令に相乗じて遂に廃仏棄釈の妄論を起こし、所によっては仏像・経論等を焼却する暴挙も起こり、野仏等も河や沼に投げ込んだり、仏堂を焼いたりといった事件まで起こった。

この辺はそれ程ではなかったが、塩谷郡の一部はかなり激しかった。その頃慈善の弟慈海が今の矢板市に合併した泉村の伊佐野の持宝院にいた。矢板方面はかなり激しく、仏堂などが破壊されることがしばしばで、太子堂もその憂き目にあっており、その堂を守護している人々から、慈海は聖徳太子像を預かり、また、阿弥陀堂の仏像も預かった。その太子像は後に慈海から龍念寺に預けられ、今日に至っている。その太子像は厨子に元文二年の墨書銘があり、像高一尺五寸で台座が付いている。阿弥陀如来像は青木組の佐藤一男家の御仏壇に安置されている。京仏師の作と思われる。その廃仏棄釈の妄論も仏教界の激しい反論のため、次第におさまり平穏となった。

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