青木の阿弥陀堂の東南三十メートル位のところに五輪塔が十数基ある。鎌倉時代に近いと思われる塔から室町中期位まで、次第に新しい形の塔があり、考古学者は青木城と関係が深いと言っていた。私もそう思う。青木の地内としても貴重な五輪塔で、史実を極める上に大切な存在である。
さて青木の阿弥陀堂について述べることにする。この堂は維持困難で縮小されて、現在方二間の草葺の粗末な堂であるが、以前の堂は現在残っている礎石からみると、方三間であった。縮小された堂には以前の用材の一部とみられる良材が使われている部分もある。以前の礎石も立派なものである。前の棟札も残っていて『大旦那大関伊豫守様金子弐分寄進也』とある。
なお、この堂に銅製の鰐口があり、径二十センチ、厚さ八センチで銘が刻まれているるが、擦れたあとがあり、以前は相当の参詣者があったと思われる。擦れたため不明な文字もあるが全文は次のとおりである。
鰐口銘 <表面>為二世大願悉地平等利益 干時天正十一年 三月吉日 <裏面>奉願□鰐口於青木弥陀御宝前所刻 本願別当□覚寄賢敬白
この鰐口は黒羽町指定の有形文化財で、紛失の恐れもあり、組代表佐藤一男が保管している。
この阿弥陀堂は龍念寺の下堂として建てられたと伝えられているが、疑わしい点がある。寺として下堂が必要であったか、また鰐口に刻まれている文字であるが、今は特に触れずにおく。
昭和の初め単独の堂地社地は認めず、整理するので宗教法人に所属するよう達しがあり、青木組よりの申し込みがあり龍念寺に所属した。大輪の虚空蔵堂、大久保の観音堂の三堂が龍念寺に所属している。堂地は各関係者が共有で国より払い下げを受けている。
祖母リウのこと
私の祖母リウ、十五世慈善長女(安政元年生)は、学は余りなかったが、記憶力は極めてよく、父慈善より聞いた話を詳しく記憶し、また、維新前後に見聞きしたことなどを私によく話してくれた。私はそれを聞くのが好きで、何回も聞いてきたので慈善の代のこともある程度わかり、祖父義参も私に解るように註釈してくれた。「聞くは法楽」という言葉がある。本書を書くうえで記憶を巡り、文献を調べるのに好都合で大変手引きになる。もちろん取捨選択はするが、一言書き添えておく。