7.飢饉と郷倉

天明二年に飢饉があり、翌三年には浅間山の大噴火があった。関東全域に降灰があり、死者が二万余りという(徳川実記より)。この噴火の影響で気象の変化が起こり、天明七年まで冷害が続いた。各地に百姓一揆がおこり、餓死者が多数出た。

同七年徳川家斉が十一代将軍となり、松平定信が老中となった。直ちに幕政を享保の政に復し、次々と政令を出した。世にいう『寛政の改革』の始まりである。その中で『万石以上の囲米の制』を定め、『備荒貯穀令』を出し、各藩に郷倉を作らせた。

黒羽藩においては明和六年、藩の農政家鈴木武助(為蝶軒と号す)が荒区備蓄のための郷倉を設置し、木の実、山菜、野菜の葉茎まで食用となるものを乾燥して保存して、飢饉のときの食料にする様、藩内を回って指導した。その十五年後に前述の天明の大飢饉が襲ったが、藩内では、『御領分之儀は一円に静謐仕、及飢渇候者も無御座、妻子安穏に扶助仕候』とある(黒羽町史より)。青木の郷倉があったと思われる場所は、小泉庄吉家付近で、今でもそこに『郷倉』という名が残っている。

武助はまた新地、野原等の開墾を奨励した。この開墾について、龍念寺の第十五世慈善が大いに関係があるので、次に書くことにする。

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