本願寺第11世顕如上人の時代の大坂の地石山合戦について述べる。まず、さかのぼって第8世蓮如上人が、この石山の地に本願寺を建立した。大坂建立の御文章の一節を次に載せさせて頂く。
「抑当国摂州東成郡生玉の庄内大坂といふ在所は 往古よりいかなる約束のありけるにや さんぬる明応第五の秋下旬のころより かりそめなからこの在所をみそめしより すてにかたのことく一宇の坊舎を建立せしめ 当年ははやすてに三年の歳霜をへたりき……。」
と上人は申されているので、よほどお気に召した地であったと思う。上人は法華一揆によって山科本願寺を焼かれ、何回も御真影をあちこちにお遷ししたこともある。この石山は要害の地でもあり、砦として建立したと考えられる。
昭和4年、京都で夏期講習会があり、禿氏先生(史学)に連れられ史跡を数か所廻って現地講義を伺った。その時たまたま蓮如上人のことに触れられ、時の京都師団長がかつて「蓮如上人が石山の地を選んだ戦略的考えは、今の連隊長級のご思慮であった。」と言ったという話をされた。
してみれば、上人は十分砦としてのお考えがあり建立されたことが察せられる。その後、第11世顕如上人の時、元亀元年、織田信長が石山の地を欲して、石山本願寺を攻めた。この合戦を石山合戦という。本願寺は下間頼照坊官が指揮を執り、よく防戦した。この戦は天正8年まで11年間続き、正親町天皇の勅命により和議が成立した。
本願寺防衛に各地の門徒が馳せ参じたが、龍念寺よりも二人が石山に行っている。二人は黒羽町北野上鈴木満の祖(名は伝わっていない)と、同所渡辺惣一の祖、惣左衛門である。両家には二人が持ち帰ったと伝わる阿弥陀如来像(五十代形)がある。かなり傷んでいるが、立派な作である。そのお像は買い求めたか、お受けしたかは不明である。渡辺家には種々の古文書が残っている。
「石山戦争図」(和歌山市立博物館蔵)。大阪定専坊所蔵の石山合戦配陣図を中川眠之助が写したもの(北が左)。Wikipediaより。