8.慈善の事

慈善は文政十年龍念寺に生まれ、若い時より寺門の復興を念頭に置き、教学を修め、寸時を惜しみ読書および写本をよくした。写本は毛筆で書くので非常に努力のいることだが、一字を一点一角に注意するので心に沁み込み記憶するから、時間はかかるがそれだけの効果がある。また、この時代には本はそう市販されていない。木版でごく限られて価格も高く、なかなか手に入りがたく、他所より借用して写本し、それを自分で製本したのである。いまも書庫に多数残っている。もちろん読書もよくした。食事の時も脇に見台を置き、見ながら食事をとった。また、布教にも出かけた。下野地内をはじめ、甲州や奥州の仙台、相馬等へ行った記録が古文書に記してある。一例をあげれば、

仙台府内天神閣而為報謝是記 慈善 安政三 丙辰 秋下旬 奥州相馬中野郷矢河村徳蔵方 安政四 丁 正月 龍念寺慈善

と古文書にある。特に相馬の地は受けがよく、得意がたくさんできて、慈善が行くのを待っていた。祖母もそのことを私に話してくれた。その法礼を寺の経営および生活の糧にあてた。

また、寺門経営の一つとして寺子屋教育をした。読み書きそろばんである。その生徒は合計七十人を超え、かなりの人数であったことが知られる。その時の生徒の一人である大塚の高崎金太郎(高崎輝夫町会議員の祖父)が晩年まで毎年正月に必ず寺へ年始に来た。私の代になっても来てくれた。彼は「お師匠はごく几帳面な方」といい、「お師匠さんのお蔭で恩で」と話をし、帰りには慈善の墓に詣でていくのが常であった。体も大きく六尺豊かな立派な風格の人であった。

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