11.龍念寺包囲発砲事件

※豊原国輝筆「近世史略 武田耕雲斎 筑波山之圖」 -天狗党の乱-、3枚揃錦絵wikipediaより

元治元年春、水戸藩内の天狗党(過激派)の藤田小四郎(藤田東湖の子)らは、筑波山に立てこもり挙兵し、書生連(温和派)との藩内抗争を起こした。その余韻を龍念寺が被ったのである。このことはあまり知られていないが寺としては大事件であった。

その発端は水戸藩久慈郡黒沢町付(現在大子町)の郷土飯村清蔵の二女ヱンが慈善の妻であったことによる。ヱンの兄が書生連の実力者の一人飯村紀七郎である。一時、天狗党が優勢の頃、身の危険を感じ龍念寺に身を寄せていた。天狗党は、「飯村紀七郎を召捕れば褒賞を与える」とした。黒羽藩内の龍念寺に飯村一派が隠れているとの噂が水戸にあるから、急ぎ居所を替えるようにとの知らせが前夜にあった。翌日払暁、寺の西の山道をヱンが紀七郎を案内して矢組の門徒の家へ連れて行った。その直後、濃い朝霧の中、寺は三方より囲まれ、銃声が鳴りひびいた。その時、寺には慈善と十二歳のリウだけがいた。二人はすぐに天狗党の発砲と気づき、慈善はリウに

「お前は早く近所の家に逃げろ」

と言い置き、前の他の畦道沿いに山麓を東に走った。驚いて道路に出てきた近所の人に慈善は、天狗党の発砲だと知らせ南へ逃げた。その時、慈善の後を天狗党の一人がおってきて、その近所の人に寺に飯村が居るかと尋ねた。聞かれた人は気転を利かせて「今、二人が馬でお殿様へ知らせに行ったぞ」といった、そのため天狗党は、折り返して寺へ戻り、何人かで家捜しをした。(古い庫裏の天井に槍で着いた跡が残っていた。)しかし、誰もいなかったので早々に引き上げていった。リウは近所の人に成りすましていたし、慈善も逃げて無事であった。ヱンと紀七郎は矢組の広木家に行き、僅かの差で助かった。

リウも近所の人々も天狗党が東へ引き上げていく有様を見ていたが、七、八十人位いたと、言っていた。その時、リウは単衣物を着ていたというから夏の事であったと思われる。大子町の飯村家は今も隆盛であり、龍念寺本堂建立の折には、本家と分家とで寄進をしてくれたことを付記する。

その後、天狗党は幕府の圧力によって劣勢となり、元治元年十月二十六日、軍議の結果、武田耕雲斎は意を決し、上洛し朝廷に哀情を嘆願することになった。十一月一日武田耕雲斎、山国喜八郎は天狗党千余人(別な文書には八百余人とある)を率い、月居峠を経て黒羽領に入るとの報があった。黒羽藩では明神峠で郷筒組が鉄砲を撃ちかけた。天狗党は雲巌寺に入り川上村に止宿し、翌二日、木佐美に出て河原に至った。耕雲斎は黒羽藩に嘆願書を出し河原に止宿することを申し入れた。藩では城下に向かってこないことを条件としてこれを認め、天狗党は河原にて一夜を過ごした。藩からは河原周辺の者に避難するように知らせがあった。慈善は未だ心の傷痕がなまなましいので、矢組へ避難する用意をしていた。そこへ河原横道の権之丞(関谷家の曽祖父)が来たので、慈善が事情を話すと、よく分かってくれて「俺も今、家族全部親戚へ逃がして、お寺の本堂に居て今晩家の方を見ている考えで来たのだから早く行きなさい」とのこと。慈善は権之丞に後を頼んで、家族二人を連れて矢組へ逃れた。その矢組は隠れるのに好都合のところで西は那珂川の岸壁であり、南東北は山に囲まれており、そこ全部は寺の門徒で親切なものばかりであった。

一方権之丞は本堂より河原方面がよく見え天狗党は焚火を焚いており、家でも焼かれてはと心配しながら、まんじりともせず一夜を過ごした。天狗党の人々は敢えて乱暴なこともせず、伊王野・芦野方面へ立ち去って行った。また、越堀・鍋掛方面にも一派が止宿したという。天狗党が川に止宿したとき、河原の益子家に六字の名号(南無阿弥陀仏)を一幅置いていったのが残っている。その御名号に親鸞九十歳と書いてある。金襴表装の百代形である。親鸞聖人の関東在住は六十歳までで以後は京都に居られた。それに六字の名号に署名されたかどうかと思う。私もかつて拝見したことがある。真偽のほどは別として貴いものであり、永く保存してほしいと思う。

2021(令和3)年 龍念寺報恩講法要をお勤めしました

11月6日(土)今年も無事に報恩講法要をお勤めすることができました。昨年に引き続き新型コロナウイルス感染症の影響により、規模を縮小し、また近隣のお寺様からのお参りは親戚寺院のみに限りお勤めをいたしました。

法話のご講師は東京都文京区、稱名寺様の横内教順先生にお話しいただきました。横内先生は東京教区(関東一帯)の若手布教使のホープです。わかりやすい例えばなしを交えながら有難くお取次ぎを頂いたことでございます。

京都西本願寺の式務部(お勤めのスペシャリスト部隊)に勤務の弟顕生に本場仕込みの喚鐘(かんしょう:法要の始まりを合図する鐘)をついてもらいました。

今年もこの報恩講法要をお勤めできたのは、ひとえに御門徒皆様のお力添え、また近隣のご寺院様のお力添えによるものであります。龍念寺は室町時代の創建であると伝わっております。約500年間、宗祖親鸞聖人がお示しくださった浄土真宗のみ教えが今日まで伝わってきている。親鸞聖人、そしてそのみ教えを伝え続けてくださった先人方への感謝の思いを改めて確認、そしてまた新たにするご法要でありました。

法話『あゆみ』青木長生

法話『あゆみ』青木長生

法話『あゆみ』青木長生

父の書いた法話集のことを、私が現在奉職しております築地本願寺の朝のお勤めの際の法話でお話ししたところ、「ぜひ読ませていただきたい」と多数のお声がけを頂きました。大変ありがたいことでございます。

販売しているわけでもございませんので、ホームページにアップします。上のリンクをクリックすれば閲覧できると思います。

(ホームページの「お問い合わせ」からご連絡いただいた方々、ドメインの受信設定の関係でメールが届いていない方もいらっしゃるようです。こちらのブログを見ていただければよいのですが、ごめんなさい。)

10.黒羽藩の宗旨人別帳

黒羽藩においては宗旨人別帳として、毎年または数年ごとに藩内各寺院が藩に提出した。それぞれの寺院が、檀徒の各地区五戸から十戸の人別を連記し、判を押させて檀徒全部を組別に何冊にも分けて、一冊ごとに『宗旨証文』として次のように書いて、寺の判を押したのである。この文書は大輪の吉成隆家に現存している。

宗旨証文 大輪村男女帳面之印形通代々拙僧旦那ニ紛無御座候若シ御法度之宗門と申者御座候ハ拙僧罷出何分ニ茂可仕申訳候為後日仍証文如件 青木村

慶応三年卯二月 浄土真宗龍念寺  興野忠右衛門殿

これは所属寺を定めさせ、組百姓立会いのもとに寺印を押捺して寺手形、宗旨手形として、旅行・奉公・寺送りに欠くことの出来ない台帳である。

前記の文書は十五世慈善の書いたものである。

ドローン撮影

子どもの頃に見ていたシダレザクラより、だいぶ傷んで小ぶりになってしまいましたが、今年も満開の花を咲かせてくれました。

動画に残して記録保存することによって記憶にも記録にも残ることを願って、今年はドローンでの撮影をしていただきました。

私の日本中で一番好きな桜の木です。


(動画は容量が重たくてうまく表示できないので、You Tubeにアップロードしてみました。)

9.慈善と宗門帳

安政年間の正月四日のことである。この日は宗門帳をもって藩の役所に行く日であった。前夜より雪が降り続き、まれにみる大雪となった。積雪二尺余(60センチ)の雪であった。慈善はその朝、宗門帳を携えて四つ(午前十時)までに役所に行かなければならなかった。慈善は供を連れ、足袋に草鞋をはいて、その大雪の中を強行し、定められた時刻に出頭した。藩内の全寺院が集まるべきなのに、近くの寺を除いてほとんどの寺院が来なかった。受付にならず翌日ということになり、町内の知り合いの家に泊まり、翌朝、前日欠席の寺院の謝り役を慈善が代表して申し述べ、詫びたのであった。早速受付になり無事宗門帳を渡し、事が済んで、新年の酒を頂き寺に帰った。それ以後、慈善は藩に対し、大変に通りがよくなり、後に開墾指導も都合よく藩で取り計ってくれた。

8.慈善の事

慈善は文政十年龍念寺に生まれ、若い時より寺門の復興を念頭に置き、教学を修め、寸時を惜しみ読書および写本をよくした。写本は毛筆で書くので非常に努力のいることだが、一字を一点一角に注意するので心に沁み込み記憶するから、時間はかかるがそれだけの効果がある。また、この時代には本はそう市販されていない。木版でごく限られて価格も高く、なかなか手に入りがたく、他所より借用して写本し、それを自分で製本したのである。いまも書庫に多数残っている。もちろん読書もよくした。食事の時も脇に見台を置き、見ながら食事をとった。また、布教にも出かけた。下野地内をはじめ、甲州や奥州の仙台、相馬等へ行った記録が古文書に記してある。一例をあげれば、

仙台府内天神閣而為報謝是記 慈善 安政三 丙辰 秋下旬 奥州相馬中野郷矢河村徳蔵方 安政四 丁 正月 龍念寺慈善

と古文書にある。特に相馬の地は受けがよく、得意がたくさんできて、慈善が行くのを待っていた。祖母もそのことを私に話してくれた。その法礼を寺の経営および生活の糧にあてた。

また、寺門経営の一つとして寺子屋教育をした。読み書きそろばんである。その生徒は合計七十人を超え、かなりの人数であったことが知られる。その時の生徒の一人である大塚の高崎金太郎(高崎輝夫町会議員の祖父)が晩年まで毎年正月に必ず寺へ年始に来た。私の代になっても来てくれた。彼は「お師匠はごく几帳面な方」といい、「お師匠さんのお蔭で恩で」と話をし、帰りには慈善の墓に詣でていくのが常であった。体も大きく六尺豊かな立派な風格の人であった。

7.飢饉と郷倉

天明二年に飢饉があり、翌三年には浅間山の大噴火があった。関東全域に降灰があり、死者が二万余りという(徳川実記より)。この噴火の影響で気象の変化が起こり、天明七年まで冷害が続いた。各地に百姓一揆がおこり、餓死者が多数出た。

同七年徳川家斉が十一代将軍となり、松平定信が老中となった。直ちに幕政を享保の政に復し、次々と政令を出した。世にいう『寛政の改革』の始まりである。その中で『万石以上の囲米の制』を定め、『備荒貯穀令』を出し、各藩に郷倉を作らせた。

黒羽藩においては明和六年、藩の農政家鈴木武助(為蝶軒と号す)が荒区備蓄のための郷倉を設置し、木の実、山菜、野菜の葉茎まで食用となるものを乾燥して保存して、飢饉のときの食料にする様、藩内を回って指導した。その十五年後に前述の天明の大飢饉が襲ったが、藩内では、『御領分之儀は一円に静謐仕、及飢渇候者も無御座、妻子安穏に扶助仕候』とある(黒羽町史より)。青木の郷倉があったと思われる場所は、小泉庄吉家付近で、今でもそこに『郷倉』という名が残っている。

武助はまた新地、野原等の開墾を奨励した。この開墾について、龍念寺の第十五世慈善が大いに関係があるので、次に書くことにする。

6.石山合戦

本願寺第11世顕如上人の時代の大坂の地石山合戦について述べる。まず、さかのぼって第8世蓮如上人が、この石山の地に本願寺を建立した。大坂建立の御文章の一節を次に載せさせて頂く。

「抑当国摂州東成郡生玉の庄内大坂といふ在所は 往古よりいかなる約束のありけるにや さんぬる明応第五の秋下旬のころより かりそめなからこの在所をみそめしより すてにかたのことく一宇の坊舎を建立せしめ 当年ははやすてに三年の歳霜をへたりき……。」

と上人は申されているので、よほどお気に召した地であったと思う。上人は法華一揆によって山科本願寺を焼かれ、何回も御真影をあちこちにお遷ししたこともある。この石山は要害の地でもあり、砦として建立したと考えられる。

昭和4年、京都で夏期講習会があり、禿氏先生(史学)に連れられ史跡を数か所廻って現地講義を伺った。その時たまたま蓮如上人のことに触れられ、時の京都師団長がかつて「蓮如上人が石山の地を選んだ戦略的考えは、今の連隊長級のご思慮であった。」と言ったという話をされた。

してみれば、上人は十分砦としてのお考えがあり建立されたことが察せられる。その後、第11世顕如上人の時、元亀元年、織田信長が石山の地を欲して、石山本願寺を攻めた。この合戦を石山合戦という。本願寺は下間頼照坊官が指揮を執り、よく防戦した。この戦は天正8年まで11年間続き、正親町天皇の勅命により和議が成立した。

本願寺防衛に各地の門徒が馳せ参じたが、龍念寺よりも二人が石山に行っている。二人は黒羽町北野上鈴木満の祖(名は伝わっていない)と、同所渡辺惣一の祖、惣左衛門である。両家には二人が持ち帰ったと伝わる阿弥陀如来像(五十代形)がある。かなり傷んでいるが、立派な作である。そのお像は買い求めたか、お受けしたかは不明である。渡辺家には種々の古文書が残っている。

石山合戦

「石山戦争図」(和歌山市立博物館蔵)。大阪定専坊所蔵の石山合戦配陣図を中川眠之助が写したもの(北が左)。Wikipediaより。