法話『あゆみ』青木長生

法話『あゆみ』青木長生

法話『あゆみ』青木長生

父の書いた法話集のことを、私が現在奉職しております築地本願寺の朝のお勤めの際の法話でお話ししたところ、「ぜひ読ませていただきたい」と多数のお声がけを頂きました。大変ありがたいことでございます。

販売しているわけでもございませんので、ホームページにアップします。上のリンクをクリックすれば閲覧できると思います。

(ホームページの「お問い合わせ」からご連絡いただいた方々、ドメインの受信設定の関係でメールが届いていない方もいらっしゃるようです。こちらのブログを見ていただければよいのですが、ごめんなさい。)

10.黒羽藩の宗旨人別帳

黒羽藩においては宗旨人別帳として、毎年または数年ごとに藩内各寺院が藩に提出した。それぞれの寺院が、檀徒の各地区五戸から十戸の人別を連記し、判を押させて檀徒全部を組別に何冊にも分けて、一冊ごとに『宗旨証文』として次のように書いて、寺の判を押したのである。この文書は大輪の吉成隆家に現存している。

宗旨証文 大輪村男女帳面之印形通代々拙僧旦那ニ紛無御座候若シ御法度之宗門と申者御座候ハ拙僧罷出何分ニ茂可仕申訳候為後日仍証文如件 青木村

慶応三年卯二月 浄土真宗龍念寺  興野忠右衛門殿

これは所属寺を定めさせ、組百姓立会いのもとに寺印を押捺して寺手形、宗旨手形として、旅行・奉公・寺送りに欠くことの出来ない台帳である。

前記の文書は十五世慈善の書いたものである。

ドローン撮影

子どもの頃に見ていたシダレザクラより、だいぶ傷んで小ぶりになってしまいましたが、今年も満開の花を咲かせてくれました。

動画に残して記録保存することによって記憶にも記録にも残ることを願って、今年はドローンでの撮影をしていただきました。

私の日本中で一番好きな桜の木です。


(動画は容量が重たくてうまく表示できないので、You Tubeにアップロードしてみました。)

9.慈善と宗門帳

安政年間の正月四日のことである。この日は宗門帳をもって藩の役所に行く日であった。前夜より雪が降り続き、まれにみる大雪となった。積雪二尺余(60センチ)の雪であった。慈善はその朝、宗門帳を携えて四つ(午前十時)までに役所に行かなければならなかった。慈善は供を連れ、足袋に草鞋をはいて、その大雪の中を強行し、定められた時刻に出頭した。藩内の全寺院が集まるべきなのに、近くの寺を除いてほとんどの寺院が来なかった。受付にならず翌日ということになり、町内の知り合いの家に泊まり、翌朝、前日欠席の寺院の謝り役を慈善が代表して申し述べ、詫びたのであった。早速受付になり無事宗門帳を渡し、事が済んで、新年の酒を頂き寺に帰った。それ以後、慈善は藩に対し、大変に通りがよくなり、後に開墾指導も都合よく藩で取り計ってくれた。

8.慈善の事

慈善は文政十年龍念寺に生まれ、若い時より寺門の復興を念頭に置き、教学を修め、寸時を惜しみ読書および写本をよくした。写本は毛筆で書くので非常に努力のいることだが、一字を一点一角に注意するので心に沁み込み記憶するから、時間はかかるがそれだけの効果がある。また、この時代には本はそう市販されていない。木版でごく限られて価格も高く、なかなか手に入りがたく、他所より借用して写本し、それを自分で製本したのである。いまも書庫に多数残っている。もちろん読書もよくした。食事の時も脇に見台を置き、見ながら食事をとった。また、布教にも出かけた。下野地内をはじめ、甲州や奥州の仙台、相馬等へ行った記録が古文書に記してある。一例をあげれば、

仙台府内天神閣而為報謝是記 慈善 安政三 丙辰 秋下旬 奥州相馬中野郷矢河村徳蔵方 安政四 丁 正月 龍念寺慈善

と古文書にある。特に相馬の地は受けがよく、得意がたくさんできて、慈善が行くのを待っていた。祖母もそのことを私に話してくれた。その法礼を寺の経営および生活の糧にあてた。

また、寺門経営の一つとして寺子屋教育をした。読み書きそろばんである。その生徒は合計七十人を超え、かなりの人数であったことが知られる。その時の生徒の一人である大塚の高崎金太郎(高崎輝夫町会議員の祖父)が晩年まで毎年正月に必ず寺へ年始に来た。私の代になっても来てくれた。彼は「お師匠はごく几帳面な方」といい、「お師匠さんのお蔭で恩で」と話をし、帰りには慈善の墓に詣でていくのが常であった。体も大きく六尺豊かな立派な風格の人であった。

7.飢饉と郷倉

天明二年に飢饉があり、翌三年には浅間山の大噴火があった。関東全域に降灰があり、死者が二万余りという(徳川実記より)。この噴火の影響で気象の変化が起こり、天明七年まで冷害が続いた。各地に百姓一揆がおこり、餓死者が多数出た。

同七年徳川家斉が十一代将軍となり、松平定信が老中となった。直ちに幕政を享保の政に復し、次々と政令を出した。世にいう『寛政の改革』の始まりである。その中で『万石以上の囲米の制』を定め、『備荒貯穀令』を出し、各藩に郷倉を作らせた。

黒羽藩においては明和六年、藩の農政家鈴木武助(為蝶軒と号す)が荒区備蓄のための郷倉を設置し、木の実、山菜、野菜の葉茎まで食用となるものを乾燥して保存して、飢饉のときの食料にする様、藩内を回って指導した。その十五年後に前述の天明の大飢饉が襲ったが、藩内では、『御領分之儀は一円に静謐仕、及飢渇候者も無御座、妻子安穏に扶助仕候』とある(黒羽町史より)。青木の郷倉があったと思われる場所は、小泉庄吉家付近で、今でもそこに『郷倉』という名が残っている。

武助はまた新地、野原等の開墾を奨励した。この開墾について、龍念寺の第十五世慈善が大いに関係があるので、次に書くことにする。

6.石山合戦

本願寺第11世顕如上人の時代の大坂の地石山合戦について述べる。まず、さかのぼって第8世蓮如上人が、この石山の地に本願寺を建立した。大坂建立の御文章の一節を次に載せさせて頂く。

「抑当国摂州東成郡生玉の庄内大坂といふ在所は 往古よりいかなる約束のありけるにや さんぬる明応第五の秋下旬のころより かりそめなからこの在所をみそめしより すてにかたのことく一宇の坊舎を建立せしめ 当年ははやすてに三年の歳霜をへたりき……。」

と上人は申されているので、よほどお気に召した地であったと思う。上人は法華一揆によって山科本願寺を焼かれ、何回も御真影をあちこちにお遷ししたこともある。この石山は要害の地でもあり、砦として建立したと考えられる。

昭和4年、京都で夏期講習会があり、禿氏先生(史学)に連れられ史跡を数か所廻って現地講義を伺った。その時たまたま蓮如上人のことに触れられ、時の京都師団長がかつて「蓮如上人が石山の地を選んだ戦略的考えは、今の連隊長級のご思慮であった。」と言ったという話をされた。

してみれば、上人は十分砦としてのお考えがあり建立されたことが察せられる。その後、第11世顕如上人の時、元亀元年、織田信長が石山の地を欲して、石山本願寺を攻めた。この合戦を石山合戦という。本願寺は下間頼照坊官が指揮を執り、よく防戦した。この戦は天正8年まで11年間続き、正親町天皇の勅命により和議が成立した。

本願寺防衛に各地の門徒が馳せ参じたが、龍念寺よりも二人が石山に行っている。二人は黒羽町北野上鈴木満の祖(名は伝わっていない)と、同所渡辺惣一の祖、惣左衛門である。両家には二人が持ち帰ったと伝わる阿弥陀如来像(五十代形)がある。かなり傷んでいるが、立派な作である。そのお像は買い求めたか、お受けしたかは不明である。渡辺家には種々の古文書が残っている。

石山合戦

「石山戦争図」(和歌山市立博物館蔵)。大阪定専坊所蔵の石山合戦配陣図を中川眠之助が写したもの(北が左)。Wikipediaより。

5.青木の阿弥陀堂

青木の阿弥陀堂の東南三十メートル位のところに五輪塔が十数基ある。鎌倉時代に近いと思われる塔から室町中期位まで、次第に新しい形の塔があり、考古学者は青木城と関係が深いと言っていた。私もそう思う。青木の地内としても貴重な五輪塔で、史実を極める上に大切な存在である。

さて青木の阿弥陀堂について述べることにする。この堂は維持困難で縮小されて、現在方二間の草葺の粗末な堂であるが、以前の堂は現在残っている礎石からみると、方三間であった。縮小された堂には以前の用材の一部とみられる良材が使われている部分もある。以前の礎石も立派なものである。前の棟札も残っていて『大旦那大関伊豫守様金子弐分寄進也』とある。

なお、この堂に銅製の鰐口があり、径二十センチ、厚さ八センチで銘が刻まれているるが、擦れたあとがあり、以前は相当の参詣者があったと思われる。擦れたため不明な文字もあるが全文は次のとおりである。

鰐口銘                                 <表面>為二世大願悉地平等利益 干時天正十一年 三月吉日 <裏面>奉願□鰐口於青木弥陀御宝前所刻 本願別当□覚寄賢敬白

この鰐口は黒羽町指定の有形文化財で、紛失の恐れもあり、組代表佐藤一男が保管している。

この阿弥陀堂は龍念寺の下堂として建てられたと伝えられているが、疑わしい点がある。寺として下堂が必要であったか、また鰐口に刻まれている文字であるが、今は特に触れずにおく。

昭和の初め単独の堂地社地は認めず、整理するので宗教法人に所属するよう達しがあり、青木組よりの申し込みがあり龍念寺に所属した。大輪の虚空蔵堂、大久保の観音堂の三堂が龍念寺に所属している。堂地は各関係者が共有で国より払い下げを受けている。


祖母リウのこと

私の祖母リウ、十五世慈善長女(安政元年生)は、学は余りなかったが、記憶力は極めてよく、父慈善より聞いた話を詳しく記憶し、また、維新前後に見聞きしたことなどを私によく話してくれた。私はそれを聞くのが好きで、何回も聞いてきたので慈善の代のこともある程度わかり、祖父義参も私に解るように註釈してくれた。「聞くは法楽」という言葉がある。本書を書くうえで記憶を巡り、文献を調べるのに好都合で大変手引きになる。もちろん取捨選択はするが、一言書き添えておく。

2020年龍念寺報恩講法要

2020年11月6日(金)今年も龍念寺報恩講法要を無事にお勤めすることができました。本来であれば毎年5日~6日の二日間にわたり近隣のお寺様から多数ご出仕いただき、雅楽を用いたご法要、また他府県から御講師の先生をお招きしてのご法話、またお斎を用意しながらのお勤まりとなるのですが、今年は新型コロナウイルス感染症の感染拡大の影響から、規模を縮小しての開催となりました。

しかしながら、当日は約40名弱の御門徒の皆様にお越しいただき一緒に親鸞聖人のご苦労を偲び、また龍念寺を守り続けてくださったたくさんの先人方のご遺徳に感謝することができた、温かいご法要となりました。お参りいただいた御門徒の皆様、ご寺院様に深く感謝いたしております。

僭越ながら今年の報恩講の講師は副住職が勤めさせていただきました。パソコンでPowerPointを使用してご法話をさせていただきました。初めてパソコンでやってみたので、トラブルもあり反省するところばかりですが、視聴覚機器やITを利用した布教伝道というのも面白いなと感じることができました。

親鸞聖人の生涯を描いた「御絵伝」。報恩講期間中にのみ奉献する特別なお掛け軸です。

ご法要のために荘厳された内陣