3.龍念寺創建の地

龍念寺入口より町道を北へ400メートル程行った所に緩やかな坂道がある。元はかなり急勾配だった。この坂を堂外坂と呼んでいる。それは創建時の龍念寺がその坂の上、つまり丘陵に本堂を建てた(室町時代)ためで、堂の外の坂で、今でも堂外坂という。

本堂といっても小さな堂であったと思われる。寺は青木城の北の砦を兼ねていたとも考えられる。それはその頃が戦乱の時であり、開山龍念が青木三河守の系統だからである。砦を兼ねているといったのは、近くにもう一つ砦とされるところがあるからである。中野内の益子健一が、かつて私に大塚の小坂内の北に道路を挟んで堀の内と称するところがあると、図面をコピーしてきてくれたその場所のことである。面積は4畝位という。現場はまだ見ていないが、一応龍念寺創建の地との距離および地形上、やはり砦ではないかと想像もできるが定かではない。

戦国時代の頃龍念寺は戦火で焼失し、再建され、また後に火災に遇っている。御本尊は二回ともお遷しして災難を逃れることができたのは不幸中の幸いであった。御本尊については後に書くこととして、その災難で寺の記録の大半を失ってしまったのは誠に残念である。

さて、この堂外坂は最も古い奥州街道で、北へ行けば大塚―長貫―柳瀬を抜けて伊王野―芦野―白河の関に達し、また南にいけば桜田―久野又から黒羽町方面へ行く道である。久野又の高梨道夫所有の山道に今でも秀衡坂と称しているところがある。奥州平泉の藤原秀衡が繁栄の頃、この道を通ったのでその名が残っている。定めしあの伝説的人物である豪商金売り吉次も、陸路を通るときはここを通ったであろう。平泉―京都間は一千キロを越える道程である。

ちなみに吉次等の墓が白河にある。八田実が、白川観光協会の案内板の説明を知らせてくれた。

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