4.龍念寺と青木三河守

龍念寺は青木三河守義勝との関係が極めて深いのである。龍念寺は室町時代の創建で、三河守の系統の龍念坊の開山である。その系譜について前々より調べたが、二回の火災で記録がなく、残念ながら解明することができなかった。ここに判明したことだけを記して、わからない世代は□□としておくことにする。また三河守と龍念坊との間に一~三代の差があると思うが、龍念が三河守の系統であることは間違いない。このころは一般には姓を用いてないが、龍念坊は青木姓を用い、以後代々青木姓を継いできていることからもうなづける。

[青木氏系譜]

青木三河守義勝……龍念(開山)―龍玄(二世)―龍静(三世)―□□(四世)―□□(五世※戦火焼失)―□□(六世)―龍円(七世)―円祐(八世)―円了(九世)―了順(十世※享保16没)―了山(十一世※天明4没)―諦聴(十二世※文化11没)―南明(十三世※?)―東明(十四世※?)―慈善(十五世※明治21没)―義参(十六世※大正14没)―勇進(十七世※大正6没)―義善(十八世※平成7没)―長生(十九世※現住)

右の者は代々青木の姓を継承している。※第十三世南明は谷文晃に師事しよく画をかいた。

龍念寺は二回火災に遇った。二回目の火災は了順の代で、その時現在の境内地に遷り、仮本堂を建てた。修繕を繰り返しながら昭和二十年代まで使っていた。

古くより『下野十カ寺』という言葉がある。いつ頃、誰が言い始めたか明らかでないが、下野の本願寺派(西)、大谷派(東)を含めた浄土真宗の古い寺十カ寺をさしたもので、寺の大小ではない。龍念寺はその下野十カ寺の中の一カ寺である。若い時私はよそからこの話を聞いた。今でも時折、寺の集まりの時にその言葉が出ることがある。そうした話の時、それは本願寺と織田信長との大坂の石山合戦に門徒が馳せ参じた寺であるとの話も出るが定かではない。石山合戦に龍念寺からは門徒二人が参じているとのことは、祖母リウより子どもの頃聞いている。

再び青木三河守義勝関係に触れる。青木城の築城は城跡の掘割その他よりみて、室町時代初期または南北朝時代末期かとも言った考古学者もあった。面積は四ヘクタール以上はある。掘割は横堀、縦堀、また絶縁の掘割などが残っていて、大手と思われる所に人口の平地が段々になり、六、七ケ所続いて一定区ずつある。それと関連して佐藤一男家の前、現在畑地を桜町(さくらまち)と呼び、また青木小円墳のある鈴木栄家西の畑を中町(なかちょう)と今でも呼んでいる。

3.龍念寺創建の地

龍念寺入口より町道を北へ400メートル程行った所に緩やかな坂道がある。元はかなり急勾配だった。この坂を堂外坂と呼んでいる。それは創建時の龍念寺がその坂の上、つまり丘陵に本堂を建てた(室町時代)ためで、堂の外の坂で、今でも堂外坂という。

本堂といっても小さな堂であったと思われる。寺は青木城の北の砦を兼ねていたとも考えられる。それはその頃が戦乱の時であり、開山龍念が青木三河守の系統だからである。砦を兼ねているといったのは、近くにもう一つ砦とされるところがあるからである。中野内の益子健一が、かつて私に大塚の小坂内の北に道路を挟んで堀の内と称するところがあると、図面をコピーしてきてくれたその場所のことである。面積は4畝位という。現場はまだ見ていないが、一応龍念寺創建の地との距離および地形上、やはり砦ではないかと想像もできるが定かではない。

戦国時代の頃龍念寺は戦火で焼失し、再建され、また後に火災に遇っている。御本尊は二回ともお遷しして災難を逃れることができたのは不幸中の幸いであった。御本尊については後に書くこととして、その災難で寺の記録の大半を失ってしまったのは誠に残念である。

さて、この堂外坂は最も古い奥州街道で、北へ行けば大塚―長貫―柳瀬を抜けて伊王野―芦野―白河の関に達し、また南にいけば桜田―久野又から黒羽町方面へ行く道である。久野又の高梨道夫所有の山道に今でも秀衡坂と称しているところがある。奥州平泉の藤原秀衡が繁栄の頃、この道を通ったのでその名が残っている。定めしあの伝説的人物である豪商金売り吉次も、陸路を通るときはここを通ったであろう。平泉―京都間は一千キロを越える道程である。

ちなみに吉次等の墓が白河にある。八田実が、白川観光協会の案内板の説明を知らせてくれた。

2.古墳と農耕

まず、ここで古墳文化について述べることにする。この時代は小国の分立であった。そして農耕生活が本格的に始まる時代であった。農耕は九州より東に移ってきたので、毛国(上・下野国)はいくらか遅れて農耕が始まった。この地を支配した者は、王族・豪族・渡来人等であり、その支配者が稲を耕作させて、集落より貢がせた。集落を作るのに条件はまず水である。両郷には二つの松葉川があり、別図のように両岸に段丘があり、また丘陵には森林もあり条件が整っていると思われる。

なお、古くは縄文時代の遺構として、この付近にかちかね遺跡・青木遺跡・大谷遺跡がある。弥生文化の頃より農耕が始まり、古墳文化の後期6世紀頃に集落の跡がある。青木・大塚(古墳周辺)・中山(中学校付近)・大谷・川田(榎平)・大久保(柚木)等に集落跡がある。

再び古墳について述べる。大塚古墳は方墳で方30メートル位ある。この古墳に伝説があって、「金毛九尾白面の狐の一尾が落ちて、このところに埋めたので、尾塚の尾が大になり大塚となった」というものである。これは那須の殺生石の伝説に通じるものである。また別説に、「この地方を治めた王様の塚で、王が大になり大塚となった。」という。これはよそにも同じような話がある。

この地方で方墳は珍しい。この古墳の周囲に堀があったと思われるが、周囲が畑地で埋まってしまったと思う。この地の歴史を知る上で、この方墳は貴重な存在である。ただ現在火の見櫓が建っているのが残念である。原型で残してほしい。

次に青木古墳のことであるが、余り世間に知られていないが、松葉川右岸の段丘上にある鈴木栄家の西北に隣接している。直径南北12メートル強、高さ2メートル弱(東側)のやや平坦な塚で、昔より塚と呼んでいる小円墳である。円墳と推定できる理由は二つある。一つはその形態で、上が比較的平坦であることである。もう一つは塚の上に植えてあったかなり古い梅の木を、数年前に掘り取ったところ、下から玉石の石垣と思われるものが出たので、元のように埋めたというのである。このことを三人ほどから聞いた。そのころ私は足の手術のため半年ほど入院していたので、後でそのことが分かった。昭和57・8年頃で実状は見ていないが、その下に石室があることが考えられる。考古学を専攻した私の二男義脩もそういう見方をしている。鈴木家では昔より毎年正月に供え物をしているとのことである。もしこれが古墳だとすれば、青木地内はもとより、この周辺の歴史を知る上で貴い遺跡であることを述べておく。

本来古墳はいくつか群をなしているはずで、あるいはほかにも古墳があったかと思われるが、耕作等でけずられていることも考えられる。

ともあれ、大塚の方墳と青木の円墳はこの地の古代史を究める上で大切な存在であり、永く原型を残して後の史家の研究に待つこととしたい。

1.両郷

両郷村は昭和30年に町村合併によって、黒羽町・川西町・両郷村・須賀川村の4町村が合併し、町名黒羽町(藩名等の関係で)と称した。

地区的には、今でも両郷地区と呼んでいる。大字名の中野内・河原・両郷・寺宿・大久保・木佐美・久野又・大輪・川田の9大字が元の両郷村で、両郷出張所・両郷中学校・両郷郵便局等、その他にも両郷の名が使われている。なぜ両郷という名が出たのかというと、前郷(寺宿・木佐美・大久保・久野又の一部)と後郷(両郷・河原・中野内・久野又の一部)で両郷(両方の郷)という名が発祥したのである。また、古くは本郷・前郷ともいった。いずれにしても両方の郷の意である。

この二つの郷に松葉川と前松葉川が流れていて久野又で合流し、堀之内で野上川を併せ田町で那珂川に注ぐ。松葉川には扁平の石に松葉の模様がついた石があるので、川にその名がある。この石は松葉石とよばれ、熱作用で変質した堆積岩である。かつて石ブームの頃、かなり遠方からも採取にきてよく知られている。なお野上川にもこの石がある。

古くはこの両郷を『高尾の邑』といった。室町時代の古文書に出ている。

『龍念寺と私』―目次―

義善の書

  1. 両郷
  2. 古墳と農耕
  3. 龍念寺創建の地
  4. 龍念寺と青木三河守
  5. 青木の阿弥陀堂
  6. 石山合戦
  7. 飢饉と郷倉
  8. 慈善の事
  9. 慈善と宗門帳
  10. 黒羽藩の宗旨人別帳
  11. 龍念寺包囲発砲事件
  12. 慈善の開墾取り立て
  13. 神仏分離令
  14. 義参の入寺
  15. 義善の死
  16. 義参の頃
  17. 勇進の頃
  18. 勇進の死
  19. 祖父義参のこと
  20. 京都行き
  21. 京都中央仏教学院
  22. 義参の死
  23. リウの死
  24. 家族のことなど
  25. 翁と灯籠
  26. 本堂再建計画
  27. 母チトの死
  28. 戦争中のこと
  29. 終戦直前のこと
  30. 本堂再建の議起る
  31. 本堂再建第一期工事
  32. 宮殿の新調
  33. 浦和に塾を開く
  34. 青木家の墓碑建立
  35. 本堂第二期工事
  36. 御本尊の御修理
  37. 書院の建立
  38. 祖師聖人御誕生八百年慶賛法要・本堂落成慶賛法要併修(11月3日修行)
  39. 書院付帯工事
  40. 墓地新設
  41. 境内の整備と墓地
  42. 足の手術、福岡博士との出会い
  43. 庫裏の新築
  44. 後継者のこと
  45. 十五世慈善住職百回忌法要

その他、挿話や付編があります。気の向くままに公開していきます。

『龍念寺と私』―まえがき―

私は昭和60年11月、57年10か月の永きにわたり勤めた龍念寺住職を退任し、また、今年1月、傘寿を迎えるに至りました。如来様のお慈悲のもと、門徒の皆々様とともに、今日まで生きてこられたあかしとして、これを機会に、寺のこと、門徒のこと、そして私のこと等を綴った本をまとめました。このような執筆は、初めてのことであり、もとよりその力もあるわけではありませんので、読みにくいところもあるかも知れませんが、意のあるところをお汲み取りいただければ幸いです。

この本には、古くは両郷の集落の成り立ちや古墳のこと、青木城と龍念寺の創建、15世慈善の努力、門徒の皆様の祖先が寺に尽力されたこと、本堂再建のこと、庫裏兼会館建設のこと、そして諸々の事業のことなどを記述し、龍念寺復興が後々までわかるようにしたつもりです。また気楽に読んでいただけるよう、挿話も入れました。

この本は、構想から草稿、推敲、清書そして印刷まで2か年を費やしました。そして、ここにようやく皆様にお届けできるはこびとなったわけです。ささやかな願いながら、本書をできるだけ多くの皆様にご覧いただき、長く保存していただければと思い、文字を大きくしたり、装幀を工夫したりしました。なお、全体の流れから、本文中の敬称は、特別な場合を除き省略させていただきました。お許しをいただきたく思います。

最後に本書が輝かしい歴史のある龍念寺の今後の発展に少しでも寄与できれば、幸いこれにすぎるものではありません。

合掌

義善識す

    昭和62年5月21日

龍念寺の創建時期はいつか?

1879(明治12)年3月31日付の龍念寺代15代住職である青木慈善[1827(文政10)年~1888(明治21)年]が残した書物に、龍念寺の創建時期を「嘉禄年間(1225年~1227年)」とする記載が見られる。

また、1898(明治31)年5月20日付の龍念寺代16代住職、青木義参[1851(嘉永4)年~1925(大正14)年]が残した書物には、龍念寺の創建について、開基である龍念が1226(嘉禄2)年に下野高田専修寺に於いて宗祖親鸞聖人の弟子となり龍念という法名を賜わり1248(宝治2)年に青木山の南方に御堂を移転したとある。

嘉禄2年は真宗高田派の略年表によると、親鸞聖人54歳、高田専修寺を創建した年となっている。第16代義参の記述が本当なら当寺は宗祖親鸞聖人の直弟子の系譜である、となるが真相は分からない。

しかしながら、江戸末期から明治にかけて先代住職がどのような認識で龍念寺の創建を考えていたのか知ることができる面白い資料だと思う。真偽のほどは別として先代達の思いは大切にしたいと思う。

龍念寺の歴史

龍念寺第18代住職、1987(昭和62)年に発刊された

青木義善が著した本『龍念寺と私』

龍念寺の歴史を知るうえで重要な書物。

祖父に感謝です。

今後は少しずつこの本の内容を公開していこうと思います。

龍念寺公式ホームページを開設しました

龍念寺の沿革や宝物・文化財を始め、浄土真宗(仏教)のみ教え、お寺の法要や行事などの情報を広く一般に公開したいとの思いから公式ホームページを作成しました。

まずはやってみようということで、中身は全くできていませんが、とりあえず公開してみました。今後、気の向くままに随時ホームページの改修を行っていき、コンテンツを充実させていきたいと思っています。

自他共に心豊かに生きることのできる社会の実現をめざして