2.古墳と農耕

まず、ここで古墳文化について述べることにする。この時代は小国の分立であった。そして農耕生活が本格的に始まる時代であった。農耕は九州より東に移ってきたので、毛国(上・下野国)はいくらか遅れて農耕が始まった。この地を支配した者は、王族・豪族・渡来人等であり、その支配者が稲を耕作させて、集落より貢がせた。集落を作るのに条件はまず水である。両郷には二つの松葉川があり、別図のように両岸に段丘があり、また丘陵には森林もあり条件が整っていると思われる。

なお、古くは縄文時代の遺構として、この付近にかちかね遺跡・青木遺跡・大谷遺跡がある。弥生文化の頃より農耕が始まり、古墳文化の後期6世紀頃に集落の跡がある。青木・大塚(古墳周辺)・中山(中学校付近)・大谷・川田(榎平)・大久保(柚木)等に集落跡がある。

再び古墳について述べる。大塚古墳は方墳で方30メートル位ある。この古墳に伝説があって、「金毛九尾白面の狐の一尾が落ちて、このところに埋めたので、尾塚の尾が大になり大塚となった」というものである。これは那須の殺生石の伝説に通じるものである。また別説に、「この地方を治めた王様の塚で、王が大になり大塚となった。」という。これはよそにも同じような話がある。

この地方で方墳は珍しい。この古墳の周囲に堀があったと思われるが、周囲が畑地で埋まってしまったと思う。この地の歴史を知る上で、この方墳は貴重な存在である。ただ現在火の見櫓が建っているのが残念である。原型で残してほしい。

次に青木古墳のことであるが、余り世間に知られていないが、松葉川右岸の段丘上にある鈴木栄家の西北に隣接している。直径南北12メートル強、高さ2メートル弱(東側)のやや平坦な塚で、昔より塚と呼んでいる小円墳である。円墳と推定できる理由は二つある。一つはその形態で、上が比較的平坦であることである。もう一つは塚の上に植えてあったかなり古い梅の木を、数年前に掘り取ったところ、下から玉石の石垣と思われるものが出たので、元のように埋めたというのである。このことを三人ほどから聞いた。そのころ私は足の手術のため半年ほど入院していたので、後でそのことが分かった。昭和57・8年頃で実状は見ていないが、その下に石室があることが考えられる。考古学を専攻した私の二男義脩もそういう見方をしている。鈴木家では昔より毎年正月に供え物をしているとのことである。もしこれが古墳だとすれば、青木地内はもとより、この周辺の歴史を知る上で貴い遺跡であることを述べておく。

本来古墳はいくつか群をなしているはずで、あるいはほかにも古墳があったかと思われるが、耕作等でけずられていることも考えられる。

ともあれ、大塚の方墳と青木の円墳はこの地の古代史を究める上で大切な存在であり、永く原型を残して後の史家の研究に待つこととしたい。

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